ehermesのブログ

インターネット、経済、政治に興味を持っています。

政府の経済との関わり

現代の政治で経済は大きなウエイトを占めている。財政政策、金融政策で経済と関わっているが、なんだか痒いところに手が届かない気もする。明治の富国強兵や戦後の高度成長のような国全体が一丸となって経済を運営するというのが難しくなっているからかもしれない。政府の成長戦略規制緩和と産業育成である。関係するところは活気づいているが、大多数の他の分野の人達は無関係である。精神的指導性が欠如している。成長するには追いつけ追い越すものがあればだが、現在ではそんな状況にもない。しかし、経済界はひとつの雰囲気に覆われる傾向にあり、それが今では辛抱するだ。アベノミックスでこの雰囲気は変化する可能性があるがどうなっていくかはまだ判然としない。政府はこれまでの経験によりなんとなく経済政策というのが出来上がり、財界は財界である種の風に包まれるのだろう。政府経済というのが経済界一般とは別に出来上がると言ってもいい。産業界の奮起を期待するのはもちろんだが、政府もめげずに自分たちの文化を育てていってもらいたい。

21世紀の保守のあり方

保守がブームだ。保守と行っても広範な歴史を持っているので一概にいえないかもしれないが。今思っていることを書いてみたい。保守が近代の環境で起こるとファシズムになるのだと思う。国家社会主義。国が産業を起こし、人種差別をし、対外戦争をする。現代の保守と根っこの部分では同じだと思う。今、保守がブームになりマスコミを席巻しているが、ファシズムのようなことが起こる気配は全くない。石原さんの党の名前は次世代の党だ。理念に収まっていて、現実の政策に関しては臆病だ。愛国心、対外的な闘争心、同胞への一体感。これについては饒舌だ。しかし、現実の政策、外交、経済政策については強い主張がない。これは保守の進化と見るか退化と見るのだろうか。僕は進歩だと見たい。時代の進歩。ポストモダンの先見性だと思う。古代、中世、近代は人類の黎明期で、今初めて一人前になったのだと思う。社会は資本主義に任せ、経済の発展を期す。政治は理念の主張で国民の支持を得る。新しい本音と建前といえるかもしれない。集団的自衛権が通りそうだ。保守が政治を指導している現れだ。それによって、21世紀の幕は放たれる。保守はどのような社会を構成するのか。楽しみだ。

貿易赤字について

 

無題のノート
 
《世界》 【年別】 (単位:千円) ,, WORLD Calender Year Data (a thousand yen) ,, Years,Exp-Total,Imp-Total ,, 1979,22531538859,24245350997 1980,29382471938,31995325202 1981,33468984502,31464145741 1982,34432500947,32656302574 1983,34909268599,30014784056 1984,40325293701,32321126640 1985,41955659471,31084935207 1986,35289713887,21550717070 1987,33315191383,21736912673 1988,33939183158,24006319859 1989,37822534626,28978572581 1990,41456939674,33855207638 1991,42359892974,31900153522 1992,43012281444,2952741936...

 

 

貿易赤字が日本経済の衰退の象徴となっている。これは経済構造の変化を表すものであって衰退ではない。輸出立国の輸出産業が産業の中心多数を占める経済から国内市場中心の経済に変化した表れである。貿易収支でなく貿易総量を見てみた。リンクである。輸出、輸入とも順調に増加している。極めて良好な状況だ。赤字幅はマクロ理論によると国内への海外からの金融投資という形をとる。株や国債の購入量が増加するのであろう。貿易の総量が輸出、輸入とも増加していれば日本の経済は問題がなく、ただ経済の構造が変わっただけである。輸出も増えているがそれ以上に国内市場をターゲットにした輸入品が増えている。国内企業が海外で生産し国内に持ち込んでいるものであろう。そうゆう見かけの輸入が増えている。日本の経済構造は激的に変わったということだ。これからは貿易収支ではなく、貿易総量で経済を見ていく必要がある。

雑感

今起こっていることは21世紀の国際秩序の作成だと思う。今の行動によりこれから20年50年の目にあまり見えない基礎的なフレームワークができるのだと思う。中国は活発だ。その部分を十分に理解しているのだろう。特に安全保障面での弱さを自覚しているのだと思う。かなり攻撃的に出ている。これは功を奏すだろう。目的が達成されるというわけではない。これがモールの起点となり全体の秩序が来まる。やった者勝ちのところがあるであろう。日本のように正論を言っていては国益を守るのは容易ではない。そこが起点になるからだ。尖閣の問題も日本が主導点を握ったのに後が続かなかった。理念で危機感を持っても肌感覚では紳士なのだろう。安全保障の問題は安定すればいいのだと思う。国家意識の強い人は反発するかもしれないが。国家に属する要件になっている。人々の生活は他の要素で決まってくる。国家には一生懸命安全を維持してもらって。ありがたいことだ。人々が力を入れなければならないことは他にある。国家を貶めるのではない。ただ帝国主義の時代とは違うということだ。日本はどうすればいいか。アジアの諸国、国ですよ、から信頼される行動を取るべきだ。実力行使も外交も手段でしか過ぎない。保守がブームでよかったと思っている。彼らは物事の大変さを十分理解していることだと思うが。

日本の安全保障。アジアのリーダーになれるか。

集団的自衛権の協議が大詰めを迎えている。僕は昭和の連続として認めるのが自然な流れだと思っているが、協議は難航しているようだ。アジアにおける日本の位置づけとして議論してみたい。今の東アジアの環境で、今までのような安全保障政策でリーダーとしてやっていけるだろうか。東アジアは安全な地域だ。その中で中国が目覚め海洋進出を進めている。彼らは外交で物事を解決しようとせずに、実績で既成事実を積み上げている。実行力を突破口としている。このような中国に対して、実際問題として実際力を持たずに対抗できるのだろうか。黙っているとどんどん実績を積み上げて既成事実化する。そのような行為を黙認してアジアの国々から日本はリーダーと思われるだろうか。安全保障体制を確立しなければ東アジアでの日本の外交的立場は危ういものになるであろう。国民感情はそういうことは考えない。現代の世界における安全保障政策を見てこれに加わるのはちょっと思っている人が多い。特にアメリカ、ロシアの政策は突出していてこれに追従するのはかなり大変だと思っているのではないか。民主主義からは安全保障を充実しろという言葉は出てこない。戦前の富国強兵に狂喜乱舞した民衆はもはやいない。21世紀も佳境を迎えて、日本の外交も変化しなければならない。保守も頓珍漢な思想だと思うが、そういう意味での危機感は的を得ていると思う。

日本にとって大きな物語とは

人間の活動は、仕事、趣味、家庭の3つにわかられると思う。趣味と家庭ではすでに大きな物語は消失してしましポストモダンにおける小さな物語の集まりになってしまった。趣味で日本全体が興味を持てるテーマはもはやない。仕事は日本全体を流れる風に支配されている。大きな物語があるのだ。ここ20年は我慢するという風が吹いていた。今、アベノミックスでこの風が変わろうとしている。政府は常にイケイケドンドンだけど、風はそうでない場合も多い。経済は日本全体がいきもののように一致して行動している。これから内需の投資が増えるのか、海外投資が増えるのか、やっぱり我慢なのかはわからないが。経済は大きな物語で動かされている。マスコミはどうなのだろうか。消費者の立場に経つと小さな物語の塊のように思えるが、業界としてはビジネスなので大きな物語に支配されている。マスコミが21世紀に対してどう適応するかは見ものだ。プロの発信者でないものもネットでは出現している。東京オリンピックなどのテーマが仕事の原理になるのか、趣味の世界のテーマになるのかは見ものだ。日本にはまだ大きな物語が残っている。

 

保守の色


椎名林檎 - 『NIPPON』 - YouTube

 

保守がブームだ。ネトウヨなどは中国、韓国に対する敵愾心で、スポーツみたいなものだろう。表現すればそれで満足するたぐいだと思う。政治における保守とは何だろう。これも戦後に対する反発力だ。大日本帝国に対する親近感だ。戦後に対する反発力だけで大日本帝国を望んでいる。思いは近代までだ。大日本帝国とは富国強兵だ。経済と武力を重視する帝国主義である。日本の経済の現状はバランスがとれていると思う。企業は活動が消極的になっているが、お金は余っている。昭和の時代に儲け過ぎた。優良な輸出企業があり、自動車は出過ぎ、産業構造は安定している。貿易収支が赤字だが、EUなんかは黒字、国内市場向けの製品を海外で作っている。海外で作って海外に輸出するというのではなく、国内回帰だ。そういう中で富国のイメージが湧かない。GDPが世界何位だとか経済規模を言うのだろうか。日本は安定した経済状況にあるのでそういう競争とは無縁だ。先進国の仲間入りをしていて経済規模がどうのという段階ではない。強兵の方だが、世界で強兵といえるのはアメリカのみだ。軍隊を強くしてそれが何という感じだ。9条のもとでの制限された安全保障政策の改善を強兵というのだろうか。集団自衛権の解釈を何十年もかけて拡大解釈することが強兵の内訳なのか。全般的に言って政治家が富国強兵を強調するのには訳があると思うが、21世紀の日本社会の建設にはあまり関わりがなさそうだ。日本は政治の枠を超えて活動せねばならない。政治家も頑張ってください、国民も頑張りますからという感じだ。