ehermesのブログ

インターネット、経済、政治に興味を持っています。

ポストモダンの時代の知識人

大衆文化が盛大になって、大衆だけじゃないと言うことを正当化するためにポストモダンを援用したことがある。大衆文化も認め知的な世界も生き残るために。民主主義では大衆化が進み、右と左のセクトの勢いが増している。知識人はどこに居場所を求めればいいのか。それは知識の運用にある。知識を持っているのは知識人のみである。知識は自分を構成するものだあると考えられる。そうであろうか。ポストモダンにあっては知識は自分の属する世界だけではない。他の文化、コミュニティーもその視野に入ってくる。自分の考えとは違う知識も身につけなければならない。自分の持っているデータベースには多種多様な情報が備わっている。それが知識人だ。それを成り立たせる基礎は何か。知性である。知識人は知性を持たねばならない。他のいろいろの文化を理解するために。政治的な右や左は感性としては受け入れられないが、同時代の社会が持っている文化として共有せねばならない。それができなければ孤独が待っている。そのとき理解の手立てとなるのが洞察力、知性である。社会は社会を成り立たせているものとイメージの二つがある。マスコミのような情報産業は両者が混在している。現状、政治的な右も左もイメージの世界を抜き出ていない。社会を成り立たせているものは別の実務、専門家がいる。近代における社会主義は社会の変更と直結していた。ロシアや中国のような後進国での革命を最先端とみるおっちょこちょいはあったが。いや、日本ではイメージの世界を超えてはいなかったのかもしれない。日本はそれにしてもポストモダンの先進国である。