ehermesのブログ

インターネット、経済、政治に興味を持っています。

安倍政治

安倍さんはどんな政治をしているのだろう。強力な長期政権であることは間違いない。極右という見方もされている。しかし、政策の進め方はそういう感じはない。極めてバランスの取れたものだ。保守の思想とそのバランス感覚はどうなっているのだろう。政治が保守の考え方と別物になっているのだろう。短絡的に保守政治家だからと考えることはできない。外交なんかも中国韓国に最初は警戒されたが時間が経つに連れその警戒はなくなっているように思える。二重人格のように思える感じもする。国益を考えたらそうするほうがいいという理性的な判断がなされているのだろう。現実主義者の顔と保守の思想を体現している顔。その二面性が安倍さんを解く鍵だろう。

保守について

保守は国家意識が切っても切れない関係だ。愛国心。国を愛する気持ち。帝国主義的な強い国をイメージする。ただ、現在の社会にどう働くのだろう。理念を強いものがあるがどういう社会をつくろうという部分には乏しい。政治的テーマではないのかもしれない。国家という部分で結びついているだけだ。現在の保守のリーダーはその部分をよくわきまえている。21世紀的だとも言える。ファシズムのようにはならない。大多数の政治家が保守を標榜している。若手は保守でなければ政治家になれないようだ。特に自民党に強い。政治家が保有する保守の常識というのが生まれるだろう。マイルド保守かな。マイルド保守は集団的自衛権をどう捉えるのだろう。武力を積極的に使うだろうか。未来に託されたテーマだと思う。今は保守の萌芽を眺めているだけだ。国家がひとつのコミュニティーになって、それ自身として存在する。国家意識、国家主義はカッコとしたものが存在するだろう。それに対向する勢力も強くなるだろう。政治の場をそのせめぎあいとなる。国民国家とは違った意味で国家の持つ意味は強くなる。そういう時代に生きている。

21世紀的概念とは

 現在の社会は分業、多様性で成り立っている。それぞれのコミュニティーが分化し、役目を担っている。皆がこの原理を共有すればだいぶ住みやすい社会になると思う。右と左の争いも相手の存在を認めつつ自分たちの主張をするようになる。それぞれのコミュニティー、メディアであれ出没場所であれ、ネットであれ同類が集まることになる。社会主義の戦いも平等と思っているから争いになる。経営者と労働者がそれぞれのコミュニティーに属して、役割を分担していると思えば平和に共存できる。イスラム原理主義も欧米は違うコミュニティーだと思えば、戦う必要もなくなる。考えが違うから摩擦も起こるが、お互いの存在を違うけど認めれば受け入れることができる。ただ、分業を認めてしまうと世の中では身分制みたいになってくるかもしれない。思考の中での存在と社会に受け入れられてからの意味は違ったものになる。

日本の保守について

保守がブームだ。政治家、マスコミを席巻している。保守であらねば人であらずという感じだ。保守は大衆運動という側面もあるし、知識人を惹きつけるところがある。非常に人間味あふれる思想で、その部分が近代と相容れない部分でもある。大衆運動の部分はいい放しでいいと思う。政治としては対中、対韓外交、集団的自衛権の問題が代表的だ。対中、対韓外交はそろそろ仲直りという面が出ているし、集団的自衛権は自衛に限定して検討されている。保守としては中途半端だと思うと思うが、それが21世紀の政治である。ファシズムだと戦争まで突き進むのだが、21世紀にはそうはならない。現実とのすり合わせが行われる。積極的に評価したいと思う。理念の部分を重要視するということだ。ただ、外交でも見たように、自分たちの心地よさだけに目を向ける。国際関係を重視せず、自分たちの殻にこもる傾向がある。保守が流行ることにより日本は自国に縮こまるようになると思う。ただ、日本の保守は国民国家を基調としているため、富国強兵を目指す。現実との遊離が生じる。保守の人たちはこの部分をどう処理しているのだろう。ともあれ、日本は内向きになる。これは経済もそうだし、個人の心情でもそうだ。日本はそういう時期を経てきた。平安時代や江戸時代だ。この部分も大きな割合を占めていると思う。江戸化を楽しもうではないか。日本は21世紀に踏み出した。

朝日の謝罪

朝日が原発問題と慰安婦問題で謝罪しました。日本は右傾化が進んでいるんだなという印象です。特に政治家とマスコミにその傾向が強いようです。自民党はその中心です。野党にも保守の人はたくさんいます。保守は人間らしい思想で、共生と対決の精神を備えたバランスのとれたものだと思います。しかし、その対抗心が政治の機能を停止させてしまいます。日本の外交が外交の体をなさなくなってしまいます。現代社会では受け入れがたい思想になっていると思います。朝日の謝罪も本来なら好ましいものであるはずなのが、激しい非難の応酬になっています。見ていて保守が自滅している感じがします。見ている方はどうなのでしょうか。拍手喝采しているのかな。事実関係だけを詰り、背景の考え方や意図を全く顧みない。それが人間だと言ってしまえば元も子もありませんが。朝日の強さと人間の弱さを感じる今日このごろです。

日本の国の形

 近代は影響する地域の争奪戦だった。自分たちの影響権を得るために他国と摩擦が起こり、戦争を行った。現在もそれは続いており、自分の国の影響を保持するために闘争、武力紛争を含むが行われている。そういう紛争に日本が関与する可能性があるだろうか。日本の強い影響権というものは存在しない。それを巡って武力を使うこともないだろう。理念を強調し、自由や民主主義を訴えるわけでもない。日本は現実の政府と協調姿勢を取る。人権外交は行わない。日本は影響力のない国になるのか。日本は欧米以外で近代を経験した唯一の国だ。帝国主義の戦いにも参加した。非欧米の諸国にとってはそれは貴重な経験となる。欧米文化は世界に影響力を持っており、それは資本主義となって現れる。世界の工場となることは欧米文化がものすごい勢いで侵入してくることだ。この時日本の経験は重要だ。異文化を受け入れるノウハウを日本は持っている。この部分で諸外国の発展に寄与すべきだ。貴重な助言を与えることができると思う。これからの日本は事業計画で発展途上国の手助けを進めることが大事だ。文化的日本の特性を最大限に活かすべきだ。人権外交をやるのが能ではない。

教育を受けたものと大衆

現在の社会では両者が存在します。考え方が違っており、社会の統一を妨げる一因となっています。自由が社会に根づいたため両者が気兼ねなく自分の考えを主張しているからです。教育を受けたものが近代の思想に近いのに対して大衆は自由の自分の直感で物事を言っています。近代社会は近代の思想で出来ているのも事実です。両者につながりがないのでしょうか。つながっている部分もあります。教育を受けたものは企業を通じて社会の供給を担当し、大衆はそれを消費することで社会に参加しています。企業が教育を受けたものと大衆を結びつける働きをしています。現代の企業は中世の宗教の役目を果たしています。NPOが社会貢献を目指すのは自然なことです。両者に優劣をつけることが本論の目的ではありません。両者の存在は現代の社会の切っても切れない者です。優越は見られません。近代には大衆を困ったものという視点がありましたが、現代はそうと言っておれなくなっています。ニーチェキリスト教を否定し大衆へのおもいやりを拒みましたが、理性を否定し意思を主張することで、大衆時代を予言しました。イスラム原理主義は欧米の社会の強固な教育を受けたものの文化に対向することで生まれました。日本のようなそこが確立していない社会では考えられないことでしょう。ポストモダン動物化する社会との見解は対象として人間を見ています。自分のことでなく人間とはという視点で論じています。教育を受けた物の価値を考える必要があるでしょう。日本の保守は両者の部分がありますが、現在のブームは大衆にとってのものでしょう。民主主義で大きな地位を占めることはそれをよく表しています。集団的自衛権で国民の支持を得てないのは大きな問題です。大衆運動としての保守は自分たちにとって大事な概念であるこの問題について大衆の理解を得る必要があります。自民党の奮起を期待します。繰り返しになりますが、両者の存在なくして現代は語れません。